聖母に恋するスポレートのフィリッポ・リッピ
2010年 11月 27日
スポレートは、ウンブリア州ペルージア県にある人口4万人弱ほどの街です。
アペニン山脈(Appennini:アッペンニーニ)の海抜は400m程の丘陵にあり、周辺では比較的大きな街です。
スポレートは、非常に古い街で紀元前5世紀頃には街があったといわれています。
ローマからアドリア海側に抜けるフラミニア街道(Via Flaminia)が紀元前220年頃に開通し、後にスポレートを通過する新街道が作られました。
スポレートの街中には、古代ローマ時代やもっと昔の居住後が数多く残されています。
街は、丘に作られているのでずっと坂を登っていきます。
旧市街は建物が密集しているのですが、突然視界の開けた先に大聖堂が突然姿を現します。
正面の広場は水平な土地だが、先は上り坂になっています。
そのため、坂の上から撮影をすると遠近感の少ない写真になります。
この山の中の大聖堂は、外からの美しさより、大聖堂に書かれたフレスコ画が最も有名です。
僕もこのフレスコ画を見る為に、スポレートへ訪れました。
もしかしたら、地震などで壁に描かれていたフレスコが崩れてしまったかもしれません。
大聖堂の中へ入ると真っ白い空間に包まれます。
それまでたくさんの石に囲まれ街中を歩いていて、大聖堂の正面などを見てから、全く予想をしていない色でした。
床もものすごくシンプルなつくりをしていたのですが、床の途中から作りが変わっていました。
なぜでしょうか?
もしかしたら、斜面に作られているので地面と接していないからか、そこから先に地下があるからか・・・
そして、真っ白な空間から正面へ・・・
ものすごい色の洪水です!
このフレスコ画を制作をしたのは、フィリッポ・リッピ(Fra Filippo Lippo,1406-1469.10.8)と言うイタリア、ルネサンス期中期を代表する画家です。
フィレンツェのサン マルコ修道院(San Marco)の2階(現在は美術館2階)の壁に当時修道士であったフラ・アンジェリコ(Fra Angelico,1387-1455.2.18)に描かれた「受胎告知」が有名な画家と同世代で、対照的な人物としてフィリッポ・リッピが登場します。
フィリッポ・リッピは、フィレンツェの肉屋で生まれたのですが、幼くして孤児になってしまいました。
リッピは、カルミネ派の修道院で育てられ修道士になりました。
その後、多くの画家の影響を受け、非常に魅力ある聖母像、空間・人体表現などがが特徴でした。
フィレンツェの北西20kmほどにあるプラートの大聖堂の壁画などリッピの代表作と言われるほどの作品を作成していきました。
プラートの壁画を製作をしていた1456年頃に当時50歳くらいのリッピは、サンタ・マルゲリータ修道院の当時19歳の修道女ルクレーツィア・ブーディ(Lucrezia Buti,1433-XVsec.)を祭礼の混雑にまぎれ誘い出し、自宅へ連れ去った。
このことが問題になり、リッピは告発され修道院への出入りは禁止となった。
当時フィレンツェを収めていたコジモ・デ・メディチ(Cosimo de' Medci,1389.9.27-1464.8.1)が芸術家に対して援助を惜しまなかったので、彼らは教皇から正式の夫婦となった。
この頃からリッピの描くマリアやサロメのモデルは、全てるルクレーツィアとされている。
1467年に、壁画制作の為に妻子を連れスポレートに移り住みました。
スポレートの大聖堂に描かれたフレスコ画は、リッピの晩年の作品であり、最後の傑作となりました。
リッピは、1468年にある程度まで完成させたが病におかされ、翌年の10月に亡くなってしまいました。
天井画は息子のフィリッピーノ・リッピ(1457-1504)が、カベ部分は弟子のフラ・ディアマンテ(1430-1492)らが引き継ぎ完成させました。
外へ出てからもう一度正面をじっくり見てみます。。。
スポレートの大聖堂は、以前にも同じ場所に教会が建てられていました。
1155年ごろにローマ皇帝の命令で壊され、現在の1200年頃に作られたようです。
壊した古い教会の石なども使い、現在の大聖堂を建設したようです。
ロマネスク様式で作られています。
正面は、8つのバラ窓があり、金色に輝くキリスト、聖母マリアなどのモザイク画を見ることが出来ます。
決して派手さは無いですが、落ち着いた美しさのある大聖堂です。
フィリッポ・リッピは、フィレンツェでスキャンダルを起こしたかも知れませんが、その後はルクレーツィアを生涯愛し続けました。
50歳以降の作品に登場するマリアのモデルは、ルクレーツィアだと言われています。
もしかしたら、この作品のマリアも生涯愛し続けたルクレーツィアなのかも知れません。。。
全ての写真は、2007年9月22日に撮影したものです。